ひょんなことで、NLP講座を受けている。
受講生は、ニート、主婦、サラリーマン
医療従事者、経営者と多岐に渡る。
そして、私は、受ける前に
本を読んで実践してみて
効果がなかったので
胡散臭い、と思っていた。
が、よく解らないけど、こんな世界なのかと
講義を受ける毎に、驚きつつも
なるほど、なるほど…と、体感している。
私は、受ける前日までは、非常に億劫だけど
講義が終わったら、重い腰を上げて
来て良かったと思う。
受けた後の充実感というか
「今日もみっちり、講義を受けました。」という
心地よい疲労感と、達成感に、包まれるのである。
そして、自分が短所と思ってたことが
他人の目から見れば、長所と映り
「それとっても羨ましい。」と
予想外の言葉を貰い
そうなのか、視点が違うと
そうなるのかと。
他人から、褒められるのは
照れ臭いけども、やっぱり嬉しいのだ。
アナタは、どうだろう?
仕事以外で、こういう心地よい疲労感や達成感を
感じる機会はあるだろうか?
誰かに、褒めてもらうことって
本当に少ないな…と感じているのでは
ないだろうか?
NLPは、結局、本を読むだけでは、理解出来ないし
残念ながら、講義を受けたからと言って
すぐ身について、誰かにやってあげられる。
そんな軽々しいものではない。
そして、講義のワークを実践して
体験してみれば、胡散臭いものでもないと分かる。
講義は、終日ワークばかりする。
そして、毎回、ワークの前に
やり方の説明として、講師がデモをする。
「目を閉じて、ほにゃららをイメージして下さい。
ほにゃららからの声を聞いて下さい。」
と、講師が言うと
「ほにゃららなんて、イメージ出来ないし
声なんて、聞こえるわけないない!」
そう、毒づいてデモを見ている。
(疑い深い生徒)
なのに、これが不思議。
受講者の人と、そのワークをやってみると
「あれあれあれ?
なんだこの言われた通りになるのは!」
なのだ。
※全ワークが、こういうものでもなく
日常、仕事に使えそうなものが多々ある。
言葉でいくら言っても、体感しなきゃ
解らないんだな、人間は。
まだ、完全に、胡散臭さは拭えないけど。
受ける毎に、胡散臭さが払拭されてはいる。
そして、ワークが進むと
感情を抑えたり傷付いて
心の奥底に蓋をしていたものが
一気に吹き出て来て、号泣する人もいる。
え?マジ?と驚いたが…。
私も、泣きそうになったのだ。
それを見た同じ受講者から
その抑えている傷を、癒した方がいいと
高額講座を勧められて
勧誘は辞めろ〜と思った。
だからなのか、休憩時間は
一人になりたがる人もいる。
ワークで、浮上した傷に
弱気になってるところに
休憩時間に、高額な講座の勧誘話を
されると変に疲れる。
同じ受講生でも、連絡先は教えない方が良い。
興味がないなら、はっきり断ること。
私は、イラッと来たので
連絡先は、教えなかったし
高額なのは、胡散臭さ極まりなし!と
バッサリ斬った。
なので、その方は、近寄って来なくなった。
その方は、気分を害されたかもしれないが
私も気分が悪いのだ。
幼少期の傷を治したらいいよとか
パワハラの傷を治したらいいよとか
大きなお世話だ。
もし、パラハラの傷が、治せるならば
とても過激な言葉だが
奴らが、社会的に抹殺された話を
聞いた時だろう。
どこも働き先がなくて路頭に迷い
これまでの行いを悔い改め
謝罪をして来たら、多分、私の傷は
癒される。
でも、それは有り得ない。
彼らは、自己中心で自分が正しいと
思って生きているし
パワハラをしたとも自覚していない。
受けるお前が悪いのだ。と
相入れない。
なので、私もその過去に
囚われて生きるのは、時間が勿体ないのだ。
もし、アナタが、過去の傷に
囚われてしまっているならば
過去の頑張った自分を褒めて
もうこれからは、過去の傷ついた自分も
引っ括めて、幸せになるのだ!と
決めてしまおう。
過去の傷に、いつまでも引っ張られるから
今が幸せになれないという
考え方もよりも
過去の傷に、いつまでも囚われずに
生きることも、選択出来るのだ。
過去は、過去。
終わったものなのだ。
もう変えられない。
私は、過去の傷に引っ張られて
今も幸せになれないとか
上手くいかないとは思わない。
過去の傷は、もう笑いのネタなのだ。
そして、過去の傷は、将来の幸せが
癒してくれるのだ。
だから、NLPのスキルで
自分で自分を癒せるならば
それでいいじゃないか。
そして、ここで方法を書けるならば
それでいいじゃないか。
と思うだけなのである。